2013-03-01から1ヶ月間の記事一覧

天草における初期キリスト教布教史15

2−3.苦行(鞭打ちなど)キリシタン時代天草の信徒たちが、鞭打ちなどの苦行を行っていたことを示す記録が多く残されている。 [1596年度年報「大矢野のレジデンシアについて」] 聖週間の諸曜日には、彼ら[=大矢野のキリシタン]は自分の肉体に血が出る…

長崎新聞で紹介して頂きました

長崎新聞で今度出す本のことを紹介して頂きました。厚く御礼申し上げます。

天草における初期キリスト教布教史14

2−2.メダイ、メダリオンhttp://www.city.amakusa.kumamoto.jp/bunkazai/pub/detail.asp?c_id=151&id=32&kbnmst=0&shumst=3&ckimst=0&type=1 メダリオン(表および裏面。17世紀。天草市立天草キリシタン館蔵):崎津に伝来。片面に「無原罪の聖母」とラテ…

展覧会など60-65−2013年3月

60<<常設展>>@五島是山記念館61<<常設展>>@リデル、ライト両女史記念館62<<常設展>>@徳富記念園63<<常設展>>@夏目漱石内坪井旧居64<<常設展>>@旧細川刑部邸65<<常設展>>@湧々座

ルネサンス研究会@学習院女子大学

5/19(日)学習院女子大学で、第40回ルネサンス研究会が開催されます。ラファエロ展(国立西洋美術館)に合わせて関連研究者が来日するのを機に、世界的視野に立って行なうルネサンスに関わる国際研究集会です。詳細は http://bit.ly/10cMJB7 まで

天草における初期キリスト教布教史13

2.初期布教期の信仰形態と現存遺物 初期布教時代における天草キリシタンの信仰形態について、その全容を明らかにするためには、現状の史資料はあまりにも限定されている。この問題に関する日本側の同時代記録は事実上皆無であり、主たる源泉である欧文記録…

天草における初期キリスト教布教史12

これらはいずれも各村を代表するキリシタンと考えられるが、とりわけ崎津の松永治部左衛門(味け留[ミゲル])は、1629、1630年度日本年報に殉教者として名前が見える「ミゲル治部左衛門」と比定され、崎津のコンフラリアにおいても中心的な役割を果たした…

天草における初期キリスト教布教史11

強まる迫害と天草・島原の乱徳川幕府によるキリシタン弾圧は、天草においても過酷を極めたが、各地に潜伏・巡回していた宣教師たちと信徒との結びつきはなお緊密なものがあったようである。1615、1616年度の日本年報には、以下のように記されている。 肥後の…

展覧会など58・59−2013年3月

58<<仏画へのいざない>>@八代市立博物館 未来の森ミュージアム59<<常設展>>@ジェーンズ邸

天草における初期キリスト教布教史10

これらのコンフラリアの活動内容や指揮系統の詳細については不明な点が多いが、迫害のさ中にあって、その存在は信仰の維持に寄与したものと思われる。慶長9年(1604)には寺沢による迫害が激化し、司祭らが常住している2つの教会(志岐と上津浦)以外のすべ…

天草における初期キリスト教布教史9

コンフラリアの成立寺沢が天草に入った慶長6年(1601)に前後する形で、天草のキリシタン社会で起こった特筆すべき出来事として、コンフラリア(信心会、兄弟会、講などと訳される)の成立を挙げなければならない*1。コンフラリアは、キリシタンの平信徒によ…

天草における初期キリスト教布教史8

1−3.寺沢領から天草・島原の乱へ 1600〜1638寺沢領となるキリシタンの擁護者であった小西行長は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで敗死した。その所領の天草は、初め加藤清正に、ついで唐津城主・寺沢志摩守広高(1563-1633)に宛行われることとなったが…

天草における初期キリスト教布教史7

第2に、天草コレジオは、西洋人による日本語研究の成果がはじめて本格的に出版された場でもあった。キリシタン時代の日本人にとって、はじめて出会う西洋の言語や学術を理解することが困難であったのと同様に、当時来日した西洋人にとっても、日本人の話す言…

天草における初期キリスト教布教史6

とくに天草のコレジオとキリシタン版(天草本と呼ばれる)が果たした役割と意義については、以下の2点を挙げることができよう。まず第1に、天草コレジオは、日本ではじめて西洋科学(自然哲学)が本格的に教授された場であった、ということである。戦難を避…

天草における初期キリスト教布教史5

天草のコレジオとキリシタン版 コレジオは、イエズス会が次世代の日本布教を担う司祭(神父)や修道士を養成するために設置した高等教育機関で、天正9年(1581)に豊後府内(現・大分県大分市)に創設された後、各地の戦乱等を避ける形で、山口、生月(長崎…

天草における初期キリスト教布教史4

1−2.小西行長の入国とコレジオの活動 1589〜1600 天正天草合戦(1589年)と小西行長の入国天正17年(1589)に起こった天正の天草合戦は、その頃天下統一を推し進めていた豊臣秀吉に対して、天草五人衆が反抗して立ち上がったものである。その鎮圧には、秀…

天草における初期キリスト教布教史3

レジデンシアと信仰の広がり この時期の天草で成立した重要な布教施設にレジデンシア(住院)がある。これはイエズス会が布教地の各所に設けた、宣教師が定住できる施設のことで、周辺に付属の聖堂や教会を持つことで、ミサを挙げたり秘蹟を授けたりする場を…

天草における初期キリスト教布教史2

羊角湾への伝来ほどなくして、天草五人衆のうち羊角湾奥の河内浦を居城とする天草氏も交易を望み、その結果、永禄12年(1569)、イエズス会のルイス・デ・アルメイダ(Luis de Almeida, 1525?-1583)による布教が開始された。アルメイダは、当時九州各地を巡…

天草における初期キリスト教布教史1

ご縁があって、天草四郎を輩出した天草のキリシタン史について書かせて頂くことになったので、随時公開してゆく。 より大きな地図で 天草キリシタン地図 を表示はじめに天草下島の羊角湾口に位置する崎津・今富地区と、湾奧の河内浦(現・河浦地区)は、キリ…

展示会など50-57−2013年02-03月

50<<オランダ通詞中山家の人びと−日本と西洋のはざまで>>@シーボルト記念館(長崎市) 紹介サイト:http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/siebold/66kikakuten.htm51<<エキゾチックジャパンへの旅>>@長崎歴史文化博物館 http://www.nmhc.jp/exot…