天草における初期キリスト教布教史1

ご縁があって、天草四郎を輩出した天草のキリシタン史について書かせて頂くことになったので、随時公開してゆく。


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はじめに天草下島羊角湾口に位置する崎津・今富地区と、湾奧の河内浦(現・河浦地区)は、キリシタン布教の一大中心地であっただけでなく、日欧の交流史上においても特筆すべき異文化の接触と受容が行われた。以下では、初期布教時代の天草キリシタンについて、その主たる情報源である西洋側の史料(ポルトガル語スペイン語、イタリア語、ラテン語)に基づいて紹介する。第1節では、羊角湾域を中心に天草教界の成立と展開について概観し、また河内浦に設置されたコレジオが日欧文化交流史上に果たした役割について取り上げる。また第2節では、天草に現存するキリシタン遺物とその関連文献を紹介し、後の潜伏期への信仰の継承を理解する上での一助としたい。

1.天草キリシタンの成立と展開 −羊角湾域とコレジオの活動を中心に−

1−1.キリスト教の伝来 1556〜1589

志岐への伝来
天草へのキリスト教の伝来は、永禄9年(1566)に志岐鎮経(しげつね)(麟泉。?-1589)がイエズス会を招来したことに始まる。鎮経は、当時天草に割拠した天草五人衆(志岐氏、天草氏、栖本氏、上津浦氏、大矢野氏)のひとつ志岐氏の当主で、イエズス会宣教師ルイス・フロイス(Luis Frois, 1532-1597)が著した『日本史』によると、彼のイエズス会への接近は、ポルトガル船との貿易による利潤の獲得にあった*1
当時のキリスト教布教は、ポルトガル船による南蛮貿易と不可分の関係にあったため、とくに貿易の拠点となった九州の西海地域においては、大きな富をもたらす南蛮船の入港のために宣教師を自領に招き、布教を求める領主が相次いだ。鎮経は肥前の有馬氏や大村氏と姻戚関係にあったため、すでに自領への南蛮船入港を果たしていた彼らからも、大いに刺激を受けていたに違いない。

*1: Luis Frois, Historia de Japam, edited and annotated by J. Wicki, 5 vols., [Lisboa], Biblioteca Nacional de Lisboa, 1976-1984, vol. 2, pp. 148-152[松田毅一・川崎桃太訳『日本史』全12巻(中央公論社、1977-1980年)、第9巻、267-276頁(第1部72章、1566年)]. また南蛮貿易キリシタン布教の関係については、高瀬弘一郎氏による一連の研究を参照のこと。CiNii Books。また近年の重要な研究に岡美穂子『商人と宣教師 : 南蛮貿易の世界』(東京大学出版会、2010年)がある。