天草における初期キリスト教布教史5

天草のコレジオとキリシタン
コレジオは、イエズス会が次世代の日本布教を担う司祭(神父)や修道士を養成するために設置した高等教育機関で、天正9年(1581)に豊後府内(現・大分県大分市)に創設された後、各地の戦乱等を避ける形で、山口、生月(長崎県平戸市)、長崎、千々石(同県雲仙市)、有家(同南島原市)、加津佐(同)と移転を繰り返し、天正19年(1591)に、対岸の天草・河内浦に移転された*1

コレジオでは日本人や外国人の神父予備生に対して、キリスト教信仰の基礎となるラテン語や哲学、科学といった西洋の学問が教えられただけでなく、信徒への説教や僧侶との討論のために必要な日本語・日本文学の知識、また仏教の素養なども教授された。またコレジオは、各地のレジデンシアをその管轄下に置く、天草教界の布教拠点でもあった。1596年のイエズス会年報では、修道士たちの学習の様子や、またコレジオが管轄する近隣の教会−その中には粼津も含まれたであろう−に彼らが派遣され、布教活動に従事していたことを伝えている。

[河内浦の]コレジオの中では、(イエズス)会で習慣になっている秩序が守られている。日本人の修道士たちに対しては、人文課程の講読やカトリックの信仰に関する『要綱』を読み了って後に、仏法と言われている日本人たちの諸宗派や誤謬についての書物が課せられる。それは(日本人修道士)たちが、毎日仏僧や他の異教徒たちと行う討論に際して、彼らを反駁することができるようになるためである。また外部の人々と交際するのに必要な事柄となっている、日本の諸々の書物を読み、また人格を形成する道理が伝えられる。コレジオのこれら修道士たちは、それぞれに割り当てられた受け持ちの村をもっており、そこへ定期的に赴いて人々にキリシタンの教理を教え、またこの練習によって自分たちの来るべき説教に備えているのである。[中略]このコレジオの管区では、2600名の告白が聞かれ、104名の大人が受洗し、また幾つかの教会が新しく建築された。(コレジオから)9000ないし10000歩離れた諸々の地は我らの少なからぬ労力によって司牧されている。なぜなら道は非常に険阻な坂道を通って行かねばならず、またその地自体が互いに非常に遠く隔たっている].*2

またコレジオには、ヨーロッパから運ばれた西洋の活版印刷機も設置された。そこではヨーロッパ製の洋活字だけでなく、日本において独自に開発された日本字の活字によって多くの書物が刊行され、そうして刊行された著作はキリシタン版と呼ばれている。キリシタン版は、日本における金属活字による出版の最初であるだけでなく、16世紀の日欧文化交流史においてとりわけ重要な役割を果たしたことが広く知られている。

※参考文献のうち、ネット上で電子テクストが確認できたものについてはリンクを張り付けた。

*1:天草コレジオの所在地が河内浦であったことについては、Sch〓tte (1968), pp. 534-538; 松田・川崎(1977-80)、第9巻、273頁、注3; 今村(1990)、266-280頁参照。

*2:John Hay ed., De rebus Iaponicis, indicis, et pervanis epistolae recentiores, Antuerpiae: ex officina Martini Nutij ad insigne duarum Ciconiarum, 1605, pp. 402-403[松田ほか(1987-1998)、第I期第2巻、152-153頁].