天草における初期キリスト教布教史4

1−2.小西行長の入国とコレジオの活動 1589〜1600
天正天草合戦(1589年)と小西行長の入国

天正17年(1589)に起こった天正の天草合戦は、その頃天下統一を推し進めていた豊臣秀吉に対して、天草五人衆が反抗して立ち上がったものである。その鎮圧には、秀吉から天草を含む肥後国南半分の統治を命じられていた小西行長(1558?- 1600)と、北半分の統治を命じられた加藤清正(1562-1611)があたった。その結果、同年11月には行長・清正両軍により一揆は制圧され、天草全島は名実ともに行長のもとに服属するにいたった*1

以上のような政治的混乱にも関わらず、イエズス会の天草布教はその後も隆盛を維持する。それは行長自身がアゴスチイノの洗礼名を持つキリシタンであり、またその家臣として天草支配に当たった志岐城代の日比屋了荷(兵右衛門。1554-?)も、ヴィセンテの洗礼名を持つキリシタンであったことに拠るところが大きい。とりわけこの時期、河内浦に移転してきたイエズス会のコレジオは、天草の各レジデンシアとその付属教会群を統括する拠点となったばかりでなく、日本と西洋の学問、思想、文化のはじめての出会いに大きな役割を果たした。

*1:行長については、鳥津亮二『小西行長―「抹殺」されたキリシタン大名の実像』(八木書店、2010年)参照。