天草における初期キリスト教布教史7

第2に、天草コレジオは、西洋人による日本語研究の成果がはじめて本格的に出版された場でもあった。キリシタン時代の日本人にとって、はじめて出会う西洋の言語や学術を理解することが困難であったのと同様に、当時来日した西洋人にとっても、日本人の話す言葉やものの考え方を理解することは、著しく困難なことであった。元亀2年(1571)に天草氏に洗礼を授けたフランシスコ・カブラルは、宣教師にとって日本語習得が大変困難であることを、強く指摘していた。

文法を学び、また学習することによって、それほど容易に[キリスト教を]教えられると思っているのは、日本語を知らないからである。なぜなら、才能ある者でも告解を聴けるようになるのは少なくとも6年はかかり、キリスト教徒に説教することができるには15年以上を要する。異教徒に対する本来の説教などはまったく考えられないことである*1。(1595年11月23日付、ゴア発信書簡)

告解を聴くこと(聴罪)と説教がおもな要務であった西洋人司祭にとって、この言葉の壁がどれほど高く立ちはだかったかは、容易に想像できよう。

この困難な言語の習得のために、来日宣教師たちはさまざまな研究を行った。とりわけ辞書をはじめとする語学書を編纂した上で印刷に付すことは、手で書き写すための膨大な時間を節約するためにも、また組織的かつ体系的な学習を進めていくためにも重要であった。そうして編纂されたキリシタン語学書を初めて印刷することに成功したのが、天草コレジオにおいてなのであり、それらは西洋人による本格的な日本語研究成果の、史上はじめての出版でもあった。

具体例を挙げると、たとえば西洋人の手による初の本格的日本語辞書『羅葡日対訳辞書』(1595年)は、当時ヨーロッパで多数出版されたラテン語辞書「カレピーノ」をもとにしたもので、ラテン語の見出し語に対して、ポルトガル語および日本語の訳語を付したものである。この辞書は、説教のための辞書とも言われ、ヨーロッパ人宣教師らによる日本人への説教の原稿作りにとくに利用されたことで知られる*2

また同じく天草で出版された『平家の物語』(1592年)、『エソポのハブラス』(1593年)、『金句集』(1593年刊)も、宣教師が説教用語の学習を段階的に進め得るように体系立てて編纂されたもので*3、この種の書物としては、計30数種を数えるキリシタン版の中でも最初期に属する。さらに天草コレジオでは、日本イエズス会が刊行した初の文法書で、ラテン文法の枠組みで日本語文法を素描した『ラテン文典』(1595年)も出版されるなど、キリシタン日本語研究の初期の成果が勢揃いした感がある。

以上のように天草コレジオにおいては、日本と西洋の初めての出会いを象徴する、数多くの貴重な文化遺産が生み出されたが、それらは天草の歴史・文化を理解するためはもとより、今日まで続く東西の文化・思想交流の始まりを記録した史料としても、重要な価値を有するものである。それらはいずれも天草コレジオが当時の日欧交流の最重要拠点の1つであったことを裏付けており、羊角湾域の教界の歴史的意義を考える上で、特筆すべき点と言える。

*1:五野井(2012)、183-186頁。

*2:大塚光信「キリシタンの日本語研究」、『国文学−解釈と教材の研究−』第51巻第11号、2006年、60-69頁参照。同辞書の影印版に、福島邦道三橋健解題『羅葡日対訳辞書』(勉誠社、1979年)がある。また同辞書については、岸本恵美氏の一連の研究を参照のこと。http://ci.nii.ac.jp/nrid/1000050324877 なお『羅葡日対訳辞書』や「カレピーノ」を含む、大航海時代の対訳ラテン語辞書を串刺し検索できる有用なデータベースに「Latin Glossaries with vernacular sources 対訳ラテン語語彙集」http://joao-roiz.jp/LGR/ がある。

*3:土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』(岩波書店、1980年)、解題、9頁。