天草における初期キリスト教布教史9

コンフラリアの成立

寺沢が天草に入った慶長6年(1601)に前後する形で、天草のキリシタン社会で起こった特筆すべき出来事として、コンフラリア(信心会、兄弟会、講などと訳される)の成立を挙げなければならない*1。コンフラリアは、キリシタンの平信徒によって組織された信仰共同体で、日本では文禄元年(1592)以降、各地に設立を見た。フロイスによると、同年肥前の大村には3000人近い人が加わったコンフラリアconfraria ou congregaҫ〓oがあったという*2

天草においては、慶長元年(1596)、志岐において初めてのコンフラリアが組織され、そこでは上述のヴィセンテ日比屋了荷が自ら組親となり、地位の高い人々が世話役となって、貧しい人々に施米していたらしい*3。また同年中には志岐にほど近い二江に「聖母のコンフラリアBeatissimae Virginis Confraternitatem」が設立された*4。さらにこの動きは他の村々にまで広がっていたようで、フロイスは1596年の年報で、以下のように報告している。

他の大きな村では、まだ心の底から偶像崇拝への信心を一掃しきれないでいる人々がいた。しかし彼らの心を、我らの「主のコンフラリアConfraternitati Domini」に名を連ねたいという望みがとらえるようになった時、既述のような謬見は彼らの眼から取り除かれてしまい、或る人々は山々の洞窟から、或る人々は自分の小さな室からおよそ20体の仏像を持参して、自分の罪を認めて皆の面前で火に投げ入れた。聖主の御昇天の祝日〔その日はコンフラリアの最初の祝日であった〕には、400名がその会に名を連ねた。そしてこの祝日をいっそう荘厳な儀式と行列をもって祝うために、学院長師はコレジオから数名の修道士たちを遣わして、彼らにミサ聖祭の時に楽器を奏して歌わせた。殿[=日比屋了荷]は家族全部と他の大勢の人々といっしょに告白をし聖体拝領をした。各地から大勢の人々が詰めかけて、それぞれの風習に従って音楽を合奏させたりしながら、それぞれに祝福しあった。その日には500名以上の貧しい人々に食事がふるまわれた*5

*1:天草のコンフラリアについては、今村(1990)、210-224頁および今村義孝『近世初期天草キリシタン考』(天草文化出版社、1997年)、59-89頁参照。またJoseph F. Sch〓tte(柳谷武夫訳)「二つの古文書に現はれたる日本初期キリシタン時代に於ける「さんたまりやの御組」の組織に就いて」、『キリシタン研究』第2輯、1944年、91-148頁も参照のこと。

*2:Frois (1976-1984), vol. 5, p. 397[松田・川崎(1977-1980)、第12巻、131頁].

*3:Hay (1605), p. 413[松田ほか(1987-1998)、第I期第2巻、166頁].

*4:Ibid, p. 415[同上、169頁].

*5:Ibid, pp. 413-414[同上、167頁].