展示会など29〜36−2012年9月

29<<渋川春海と江戸時代の天文学−「天地明察」の時代−>>@大阪市立科学館 H24.9.4-10.21

嘉数さん執筆の冊子と照らしあいながら鑑賞。簡にして要を得た紹介は、
内容を膨らませて新書にするなどして欲しい。資料はM先生のものが多い
のかも。こよみ巻き取り機や、大小看板、こよみ版木のたばこ盆(と磁
石様の染付灰皿)は珍しい。


30<<常設展>>@大阪市立科学館

「江戸時代の天文学」の、研究→天体観測→理論の改良→新しい暦(最初に戻る)

舎密局」の、『舎密局開港記念日写真』の人物;
後列 A.M.ヴェダー、緒方惟準、何礼之助、平田助左衛門、田中芳男
前列 A.A.J.ガワー、土肥真一郎、西本清介、ピステリュース、宇都宮三郎、ハラタマ、三崎嘯輔
中央 A.F.ボードイン

入り口の偏光ステンドグラス、1Fの霧箱、その他数多くの実験に、時を忘れる。小学校の時よく通った四ツ橋の電気科学館のプラネタリウムは原風景。


31<<町人天文学者間重富の天文観察と暦>>@大阪歴史博物館 H24.8.29-10.29

間重富肖像』昭和24年(1949)は、「大坂天文算学者画像」から重富のみ抜き出したもの
との由で、新村出賛。

月食測記』寛政5(1793)市指定
重富の幕府事業従事前、同年7月15日のもの。長堀の自宅で、自製の「測食定分儀」使用。
現存2番目に古いもの(最古は寛政元年、市図書館のもの)

月食測記』寛政7(1795)市指定
重富と至時が出府後初の月食観測記録。至時自筆

『西洋人ラランデ暦書管見』享和3年(1803)は、重富による写本、とのこと。

『覚(御用測量申付に付)』は、寛政10年(1798)。翻刻以下のとおり。

 覚
一、大坂北極出地度
一、大坂距京師西偏度
 右者近年内致測定可被申越候事
一、二至二分太陽赤道経緯度
一、日月食
 右者致測量都度ニ可被申越候。其外彗孛等見当被申候者可被申越候事

高橋作左衛門
午正月 至時(花押)
山路才助
徳風(花押)
吉田靭負
秀(花押)
 間五郎兵衛殿

『反射式望遠鏡』は英製グレゴリー反射望遠鏡で、文政13年(1830)2月15日
月食天保8年(1837)の水星観測に用いられた。接眼鏡附近に銘「Urings
London」(John Urings, c. 1775-1800か)

<安井家文書について> 参考文献:小谷利明「河内国渋川郡久宝寺村安井氏に関する基礎的考察」

山崎闇斎書簡』延宝8年(1680カ)4月19日 
福住道祐宛。江戸の春海からの書状を引用し、安井家系図調査の依頼を取り次ぎ。本書翰は写しとのこと。
  ↓
『福住道祐書簡』同6月8日 安井九兵衛への調査依頼
  ↓
『安井九兵衛書簡』同6月9日 信長・秀吉との関係が中心で、それ以前については、親の道卜から「不明
なので、畠山が先祖のようには書くな」と言われている、など

『安井家系図』元禄15年(1702)7月 春海作成のものを安井家で写したもの

安井家系図

助左衛門−−−主計    −−忠右衛門(宗順)−算哲(六蔵)−春海
       |        |
       |−勘助−−−−−治兵衛
       |        |
       |−清右衛門 |−九兵衛(道卜)−九兵衛(定元)
       |        |
       |−了意     |−五兵衛
                |
                 |−小左衛門

間文庫の目録は:
大阪歴史博物館井上智勝編集『大阪歴史博物館所蔵羽間文庫古典籍・古文書目録』
(鈴木一義、2006年)(科学研究費補助金(特定領域研究(A))研究成果報告書 ; 平
成13年度-平成17年度「我が国の科学技術黎明期資料の体系化に関する調査
・研究」:計画研究;A06b「羽間文庫資料の調査・分類と近代科学受容
の研究」成果報告書)

実物・マイクロの閲覧は、事前の特観申請が必要(ネットからダウンロードできる
とのこと)

紙焼きの複製本は、同館2階の歴史塾で閲覧可。紙焼き本のリストは、
http://www.mus-his.city.osaka.jp/kyoiku_kenkyu/gakusyu/fukusei.html


32<<常設展>>@大阪歴史博物館

『末吉船絵馬(複製)』現品:杭全神社蔵
平野の七名家のひとつ末吉家は中世末から経済力を高め、17世紀
初めころよりルソンやシャムへ渡航船をだし、盛んに海外交易を
行った。その船は末吉船と呼ばれ、この絵馬は杭全神社に奉納さ
れたもの。

翻刻
奉掛御宝前 諸願成就皆令満足 寛永丁卯四暦 平野屋源左衛門尉 敬白

結核予防週間チラシ』昭和戦前期
左側に「出た出た、天然痘」の広告。


33<<新発見!なにわの考古学>>@大阪歴史博物館 H24.7.25-10.22

江戸時代の大坂城の巨大集水枡が中心。


34<<「近代医学の幕開け」展>>@佐賀城本丸歴史館 H24.9.28-11.4

1.武雄の「経絡人形」(1700年)は、京に留学した武雄の医師・清水玄斎旧蔵。箱書き(破損激しい)は、

銅人形引経/元禄十三庚辰歳□□廿五日/洛陽井原道閲先生伝之/
[以下、別の木片ヵ]
同岡本為竹一抱子先生ニ先生口授

http://www.epochal.city.takeo.lg.jp/lib_his/history/jinbutu/text/yuijyun.html

5.「西洋医術図巻」(1783年)は、明らかに楢林系。解説によると栄哲(高茂)が記した秘伝書で、天明3年成立とのこと。そういう奥書等があるのだろうか。

10.「象先堂常用方」は、織田病院蔵。織田法益(元仙)は鹿島の御典医織田家10代。伊東玄朴が江戸に開いた蘭塾・象先堂に入門。これは象先堂の処方箋。玄朴墓碑は、谷中の天龍院。

その他、種痘関係の展示も充実。
12.「種痘法則」1849年
13.「牛痘発蒙」(1849)では、痘苗が江戸の玄朴に届けられ、直正の娘に接種、江戸で初の種痘が成功したこと、その効能について論じる。
16.個人蔵の「種痘済症(証?)」1876年は、同年に志波屋・七田基年の長女・琴千代への接種証明。

18.有名な「直正公嗣子淳一郎君種痘の図」は接痘者は侍医の大石良英。

20.佐賀藩医業免札姓名禄(録?)、1852年の嘉永5年(1852)には大石良英

24.「医制畧則」は知安の医学制度構想をまとめたもの。後任の専斎に引き継がれ、明治7年(1874)に「医制」として公布。
25・26の心得もいずれも知安。
27の回想では「西洋大学ノ盛ナル者ハ独乙ナリ。英仏ハ害アツテ利ナシ」

33.金武良哲顕微鏡は、藩の蘭医の手製と伝わる。パンフに「個人蔵(県博寄託)」、キャプに「県図」とあるが、いずれか。

36〜38の薬籠は、武雄で代々医業をなす某旧家に伝わるもの。

45「シモンズ条約請書」は、明治10年(1877)好生館着任時のもの。

大石良英については、太田善郎「種痘医・大石良英の顕彰と佐賀藩の医学」『葉隠研究』第66号、2009年?。

良英は、本木昌造家から佐賀鍋島山城の侍医・大石家に養子に出たとのこと。シーボルト、象先堂に学び、1848年御匙医、49年11月に江戸で貢姫に行った接種が江戸初。嘉永4年(1851)八幡小路蘭学寮で、大庭雪斎とともに教育。頭取に。安政5年(1858)移転、好生館となる。

伊東玄朴は種痘の招来を要請したというが(直正に?)、モーニッケ・宗建の背景と考えてよいものか。高島秋帆親子との関係は。

天保8年(1837)武雄の蘭医・中村凉庵が長崎で手に入れた牛痘を用いて武雄で種痘した、とも。


35<<売茶翁−没後250年−>>@佐賀県立博物館 H24.9.11-11.8

1.売茶翁「大仏殿前松下開茶店詩」宝暦10年(1760)個人蔵

松下点茶過客新
一銭売与一瓶春
諸君莫笑生涯乏
貧不苦人々苦貧
     八十六翁 高遊外


36<<常設展>>@京都大学総合博物館

「山脇社中解剖供養碑」男女14名を供養。京都・誓願寺に建立されたもの。

キリシタン墓碑11点(立碑6、カマボコ5。すべて京都市内)